袋町小学校
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爆心地から南東に460mの場所にある袋町小学校は、原爆投下直後の救護活動で重要な役割を果たした場所です。現在は平和資料館になっており、原爆による破壊の跡から見つかった数々の被爆資料が保存されています。その中には、原爆投下直後の日々に生存者たちが必死の思いで書き記した伝言も含まれています。こうした遺物の実物に触れることで、世界最初の核による攻撃を受けた人々の痛ましい状況に思いを寄せることができるでしょう。
袋町小学校は、1876年に現在と同じ場所で開校しました。校舎は当時の主流だった木造の建物でした。現在平和資料館として使用されている西側の校舎は、1937年に増築されたものです。開校当初からの校舎は原爆で完全に破壊されましたが、新しかった西校舎の鉄筋コンクリートの建物は外殻が崩れずに残りました。原爆投下当時、小学校に通う年代の子供たちはほとんどが広島県外に疎開していました。しかし、まだ残っていた児童もおり、袋町小学校には約160名の児童が通っていましたが、生存者はわずか数名でした。また、同校では教職員16名も犠牲になっています。
生き残った児童3人の命を守ったのは、当時の最新の建築だった西校舎の建物でした。原爆投下の瞬間、この3人は西校舎の中でも現在まで残っている内側にあたる部分にいて、その後地下室(現在地下3mの場所)に移動したといいます。1人はその直前に屋外で裸足で遊んでいたところ、靴を履くように言われて建物の中に入った時に原爆が投下されました。
原爆投下の翌日、袋町小学校は生存者の救護の必要に迫られて、臨時の救護所になりました。当時赤十字国際委員会の派遣員として日本にいたスイスの医師、マルセル・ジュノー(1904-1961)は、この救護所の活動に大きく貢献しました。ジュノーは休むことなく被害者の救護にあたり、袋町で1日に100人近い患者を治療していました。その功績を称えて、平和資料館の外にはジュノー医師の肖像のレリーフが設置されています。
袋町小学校の授業が再開したのは1946年。当時は児童37名と教員3名でした。西校舎は修復されてその後何年も使われていましたが、老朽化が限界に達したため、一部を保存して建て替えられることになりました。1999年という近年になって、自治体職員が壁の漆喰を剥がしたところ、原爆を生き延びた人々の手書きの伝言が発見されました。さらに建物の他の場所でも伝言が見つかったことから、建物の保存の計画を発展させ、独立した資料館が作られることになったのです。