観光庁による解説文
陸軍被服支廠倉庫
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広島市の南、原子爆弾の爆心地から2.7キロメートルの場所に位置するこれらの4棟の大きな倉庫は、第二次世界大戦中に日本帝国陸軍の制服を製造、修理、保管、配布するための拠点として使用された、さらに広大な建物群の残りです。1913年に建設されたこれらの倉庫はそれぞれが長さ94メートルあり、日本での西洋式赤レンガ建築の初期の例で、よく褒め称えられている東京駅の赤レンガ造りの外観が作られる1年前に完成しました。しかし、日本では地震活動が多いため、倉庫の赤レンガの外観の裏には鉄筋コンクリートの壁が隠されています。爆心地からの距離により、1945年8月6日の原爆投下後も建物はたち続けましたが、屋根は取り付け部品と共に大きな被害を受けました。最東端にある建物を除き、焼け焦げたり、へこんだり、損傷を受けたりした外部の鉄製扉をまだ見ることができます。
原爆直後の数日から数週間の間に、これらの建物は臨時の救護所として使用されました。しかし、医療用品も少なく、爆弾が原子爆弾だという情報も不足していたため、ここで治療を受けた人々の多くはまもなく死亡しました。終戦後、これらの建物は、学校、運送会社の倉庫、学生寮などとして使用され続けてきました。