観光庁による解説文
山陽文徳殿(記念碑)
目次
この建物は大きさは控えめですが西洋建築と日本建築の融合が珍しいもので、被曝地からわずか1,820メートルに位置しているにもかかわらず、原爆を生き延びることができました。建物の鐘楼からそびえ立つ仏教風の九輪は、爆風の熱でゆがみ、被害を受けたままの状態で今日まで残されています。山陽文徳殿は、市南部の比治山の麓、多聞院の隣に建っています。検査により山の土壌には未だ原子爆弾を「経験した」痕跡が含まれていることが明らかになっており(現在は全く安全です)、山陽文徳殿自体にも、爆発で焼け焦げた2本の桜の木が生えています。
この建物は1931年、著名な儒学者で広島の武家の跡取りであった、頼山陽(1780–1832年)の没後100年を記念して建設されました。日本式の瓦張りの屋根は、ヨーロッパの影響を受けた頑強な鉄筋コンクリートの壁で支えられており、それにより、1945年8月6日の惨害にも耐えきることができたと考えられます。この建物は原爆投下当時、市役所の戸籍書類の緊急保管施設として利用されていました。目撃者の証言によると、これらの書類の山は原爆の衝撃波によって散乱しましたが、何故か無傷のままだったということです。山陽文徳殿は現在使用されておらず、一般公開もされていませんが、記念碑として維持されています。