広島城
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広島城には、16世紀後半まで遡る歴史があります。最終的に広島を市へと育てたきっかけとなるその要塞は、毛利輝元(1553〜1625)によって設置されました。毛利は当時、この地域の大半を治めた有力武将です。建築と防御の両方が比較的容易なために、太田川三角州の平地が城の建造場所として選ばれました。
頑丈な石壁、天守閣、三重の堀(残存するのはそのうち1つのみ)を持つ広島城は、1589年から1599年の間に建設されました。その頂上には堂々とした天守閣が立ち、同時に城下町が設立されました。輝元は1951年からここを本拠地とし、今日の広島県、島根県、山口県、そして岡山県と鳥取県の一部を構成する9つの地方を統治しました。この要塞には、「鯉城(りじょう)」の別名が付けられています。
1600年の関ヶ原の戦いは、1867年まで徳川幕府の下に日本を統一する鍵となりました。輝元が彼の建てた城からの退去を余儀なくされたのは、合戦の後です。その次には、安芸と備後の大名として福島正則(1561〜1624)が広島城に入りました。しかし1619年、幕府の許可を得ることなく洪水による城の損害を修繕したために、彼は改易されました。その後は、徳川統治の終わりと封建制度の廃止まで、浅野家が12代に渡ってこの城から当地を治めました。そして広島城は、日本帝国軍施設となります。1931年には、最初の天守閣が国宝に指定されました。
第二次世界大戦の終わりに向け、連合国侵略を見越してここには軍隊が駐屯しました。1945年8月6日、原爆によって城は倒壊しました。調査では、低層部の柱が爆風によって破壊され、残りの構造を崩す原因になったのではと言われています。現在では、木製の元の天守閣の代わりにコンクリート製の天守閣が復元され、そこは明治時代(1868〜1912)以前の広島史の遺物を主に展示する博覧会の会場となっています。復元が完成したのは、1958年のことです。ですが城壁内には今も、原爆を生き残った3本の木が残されています。