平和記念公園レストハウス
- 爆心地から170m
- 鉄筋コンクリート造/3階建・地下1階
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この建物は、大阪に本店を持つ大正屋呉服店が、対岸の細工町から中島本町(現在の位置)に新築移転したもので、瓦屋根の木造家屋が続く町並みの中で、当時としてはめずらしい鉄筋コンクリートのモダンな建物でした。
目新しさは、建物の構造だけではなく、1~3階はショーウィンドウのある売場で当時としては珍しく履物を履いたまま上がれるようになっていました。
建物の屋上からは市内が一望できました。
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戦時体制により、1943年(昭和18年)12月に発令された繊維統制令により呉服店は閉鎖されました。
1944年(昭和19年)6月に、経済活動を統制することを目的とした国策の統制会社である広島県燃料配給統制組合が建物を取得し、「燃料会館」と呼ばれるようになりました。
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被爆した燃料会館 1945年9月撮影 (提供 朝日新聞)
爆心地から170mにあった建物は、原爆により屋根が押しつぶされ、内部も破損、地下室を除いて全焼しました。
しかし、爆心地の近くでありながら爆心地側に開口部のほとんどない強固な建物だったためか、基本的形態はとどめました。
被爆当日、この建物には37人が勤務していましたが、たまたま地下に書類を取りに下りていた1人を除いて、全員死亡しました。
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平和記念公園の建設に伴い、取り壊すかどうかの議論がありましたが、1957年(昭和32年)3月に広島市が買収し、復興の拠点となりました。
1982年(昭和57年)からは平和記念公園レストハウスとして整備され、公園の憩いの場となりました。
なお、地下室は現在も被爆当時の姿をとどめています。
平和記念公園レストハウスは、耐震補強や地下部の保存などを行うとともに、旧中島地区の歴史資料を展示する改修工事を行い、2020年(令和2年)7月にリニューアルオープンしました。
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現在のレストハウス