原爆ドーム

  • 爆心地から160m
  • レンガ造り/3階建

広島県物産陳列館の建設


提供 広島市公文書館 提供 広島市公文書館

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原爆ドームのもとの建物は、チェコの建築家のヤン・レツルの設計により、大正4年(1915年)4月5日に広島県物産陳列館として完成しました。
この建物は、一部鉄骨を使用した煉瓦造の建築で、石材とモルタルで外装が施されていました。全体は窓の多い3階建てで、正面中央部分は5階建ての階段室、その上に銅板の楕円形ドーム(長軸約11m、短軸約8m、高さ4m)が載せられていました。
大胆なヨーロッパ風の建物はたちまちにして広島名所の1つとなり、シンボルともなりました。


繁栄


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1919年(大正8年)3月に広島県物産陳列館で開催された似島独逸俘虜技術工芸品展では、開館以来、最高の人出があったと伝えられています。
ドイツ人の捕虜が作った美術・工芸品、飲食物など323品目が出品されました。この時、捕虜の1人であった菓子職人カール・ユーハイムが日本で初めてバウムクーヘンを紹介したと言われています。
また、物産陳列館は、1921年(大正10年)に広島県立商品陳列所に名前を変え、同年4月に第4回全国菓子飴大品評会(現在の全国菓子大博覧会)の会場となりました。
さらに1933年(昭和8年)からは広島県産業奨励館と名前を変え、昭和初期に、館の活動は最盛期を迎えました。


戦時下の広島県産業奨励館


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1937年(昭和12年)には日中戦争が始まり、広島県産業奨励館にも戦争が濃い影を落としてきました。
レンガ造の耐火構造であったため、1941年(昭和16年)6月に、日本の木材統制機関であった日本木材株式会社広島支店が入居し、展示室は次々と国や県の機関、統制会社等の戦時行政の事務所に変わりました。展示室の催しも戦時色が濃いものとなり、ついに1944年(昭和19年)3月31日、館の業務が完全に停止しました。


原爆による被害


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昭和20年(1945年)8月6日8時15分、一発の原子爆弾により広島市街の建物は一瞬にして倒壊し、灰燼に帰しました。
広島県産業奨励館は爆心地から北西約160メートルの至近距離で被爆しました。
爆風と熱線を浴びて大破し、天井から火を吹いて全焼しましたが、爆風が上方からほとんど垂直に働いたため、楕円形のドームを覆う銅版が熔け、爆風が抜けたことにより、建物の壁の一部は奇跡的に倒壊を免れました。
しかし、当時この建物の中にいた人は全員即死しました。


原爆ドームの保存


第二回保存工事(1989年) 第二回保存工事(1989年)

戦後、旧広島県産業奨励館の残骸は、頂上の円蓋鉄骨の形から、いつしか広島市民から原爆ドームと呼ばれるようになりました。
当時、原爆ドームについては、原爆の惨禍を後世に伝えるために被爆後の姿をそのまま残すという意見と、危険建造物であり被爆の悲惨な思い出につながるということで取り壊すという二つの考え方がありましたが、次第に保存を求める声が高まり、1967年(昭和42年)に第1回保存工事が行われました。
その後、1989年(平成元年)、2002年(平成14年)、2015年(平成27年)と計4回の保存工事が行われています。


世界遺産への登録


1992年(平成4年)9月に、日本の世界遺産条約加盟を契機として、原爆ドームを世界遺産に登録しようという声があがり、広島市は国へ要望書を提出しました。
1993年(平成5年)6月には、原爆ドームの世界遺産化を求める国会請願のための全国的な署名運動が展開され、165万名あまりの署名が集まりました。
地域をあげての運動の結果、国は1995年(平成7年)6月に原爆ドームを史跡に指定し、9月には世界遺産として登録するよう世界遺産委員会に推薦しました。その後、1996年(平成8年)12月、メキシコで開催された世界遺産委員会において、原爆ドームの世界遺産登録が決定しました。


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